栗田洋子
介護の必要がなく、健康的に日常生活を送れる期間を示す「健康寿命」。2019年の平均寿命と健康寿命との差は男性で約9年、女性で約12年あり、この差をいかに短くするかは、超高齢化社会の大きな社会課題だ。その課題解決に向けパナソニックが5年以上かけて開発した「ウォーク・トレーニング・ロボ(Walk training robo)」は機能面でもデザイン面でもこれまでになかった画期的な製品として脚光を浴びている。介護予防の第一歩と言われる「歩くこと」へのモチベーションを高め、押して歩くだけで一人ひとりに合わせた最適なトレーニングを提供するロボットは、何がそれほどすごいのか――。
2021年7月から「ウォーク・トレーニング・ロボ」を2台利用している介護老人保健施設なんな苑(千葉県市原市)。病院と家庭をつなぐ中間施設として、約100名の入所者に加えショートステイやデイケアも受け入れている同苑では、この歩行トレーニングロボットを使って1㎞以上歩く人が続出している。
「高齢者の方は、わりと新しいものが好きなんです。面白そうだなと思い導入させていただいたら、予想以上に“はまる”方が多かった。みなさん取り合うように自発的に歩いていらっしゃいます」。同施設でリハビリテーションを統括している理学療法士の飯吉裕樹氏はロボットの人気ぶりについて、こう話す。
運動機能の低下を防ぐ歩行訓練は約60mの回廊を使って行っているため、1㎞以上となると何十周も歩くことになる。何もないとなかなか歩けない距離だが、ロボットを使うと、目標設定できる最大値の1.2㎞を歩いてしまう人も増えているという。汗をかき、息をつきながら充実した様子でトレーニングを終える人も多いそうだ。
「ウォーク・トレーニング・ロボ」は、使用前に利用者がタッチパネル画面の一覧から名前を選択するか、IDカードをかざしてログインするだけで、その人に合った最適なハンドルの高さや運動負荷が自動で設定され、すぐに運動を始めることができる。さらに、押して歩くだけで歩行スピードや時間、距離、歩行姿勢(左右のバランスの傾き)が計測・記録され、リアルタイムで画面上に表示されるのも工夫の一つ。利用者のモチベーションアップにつながるよう、歩行中はランダムに軽快な音楽が流れる。
「リアルタイムに歩行データが表示されるディスプレイがあって、音楽も流れる、かわいいデザインのものを押して歩いていると目立つんです。その視覚的な効果は絶大なものがありますね。利用者自身もどんどん気持ちが乗っていって、あれよあれよという感じで歩行距離を伸ばしていきますし、その姿を見て『私もやってみようかな』と始める人も多いです」と飯吉氏。
時間の経過とともにあまり使われなくなる機器もある中、このロボットに関しては導入から半年以上たつ今も飽きられる様子はない。ロボットを使って歩くために継続して施設に来る人もいるほどだ。その結果、もともと歩けていた人は歩行距離や歩行スピードが伸びている。パーキンソン病などでほとんど歩けなかったり、普段は車椅子で生活していたりする人でも約60mの回廊を1周、2周と歩けるようになった事例が出ているという。
ロボットにはセンサーが搭載され、ハンドルにかかる力や車輪の回転情報などをセンシング。これらの情報を含めた歩行のデータがクラウドに保存、蓄積され、データを基にAIが一人ひとりに最適な負荷や目標距離、時間の補正を行ってくれるのも大きな特徴だ。データは施設スタッフがパソコンなどから確認でき、ハンドルの高さや負荷、目標設定を編集することができる。また、トレーニングの記録はグラフ化して出力することも可能。これまでスタッフが手書きで行っていた報告書の作成も簡単に行えるため、スタッフの負担軽減にもなる。
運動負荷については、画面上でも押す時の負荷が「なし」から、「かなり重い」まで5段階で調節可能だ。実はある程度の負荷がかかることが支えになり、安全に歩ける効果もあるという。引く時の負荷もON・OFFが設定でき、負荷をかけることでバランスを保ちやすく、転倒予防にもなる。開発段階から付き添いなしでも安全に訓練を行えることにこだわっており、パーソナルケアロボット(生活支援ロボット)の安全性に関する国際規格ISO13482を取得している。
飯吉氏は歩行データが蓄積されていくことも高く評価する。「過去のデータもすべてクラウドから上がってくるので、後から分析することができるのが非常に有り難い。これまで写真や動画を撮影して動作分析をしなければ分からなかったことも、データからある程度読み取れますから」。例えばハンドルの傾きのデータの乱れによって、その人の疲労のタイミングが分かる。過去と比較して疲労が現れる時間が遅くなれば、その分筋力がついたということだ。また、撮影されると緊張して普段通りの訓練ができない人も多いため、自然な状態で取れるデータは非常に貴重だという。
「訓練の成果が目に見えて分かるため、ご本人が喜ばれるのはもちろん、リハビリの専門家ではない主治医や看護師、ケアマネージャーらにも分かりやすく状況を伝えられ、よりきめ細かいケアにつなげられます」と飯吉氏。リアルタイムのデータを見ながら負荷を変えることで利用者に押し込みの感覚を実感させたり、ハンドルの高さを変えることで肩周りの筋肉も鍛えたり、「使い方のアイデア次第で効果的なリハビリを工夫できる」と目を細める。
さらに飯吉氏は、認知症や高次脳機能障害、うつなど人との関わりに困難がある利用者との相性の良さも指摘する。「1㎞以上歩く人には認知症の方も少なくなく、集中力をうまく向けるためのアイテムとして、人間よりもマシンのほうが向いている部分があると感じています。セラピストの話が聞けず困難事例とされている方でも、マシンを使って集中して運動することによって、身体機能を維持していくことができます。その結果、症状が少し和らいでくる方もいらっしゃるんですよ」。
飯吉氏の指摘に大きくうなずいたのは、歩行トレーニングロボットの開発プロジェクトを率いてきた、パナソニック くらし事業本部 アクティブエイジングデザインプロジェクトの山田和範氏。
山田氏の元には他にも「利用者に笑顔が増えた」「歩くことに自信がついて『ちょっと郵便局に行ってみようかな』という声も出てきた」など、認知症に限らず、前向きな変化の報告が多数寄せられている。施設を訪問した際、笑顔でトレーニングに取り組む男性について「普段は全く笑ったりしゃべったりしないのに、ロボットで歩くようになってからは、画面を見ながらスタッフと会話したり、『100m達成!』と声を上げたりするようになった」と教えられたこともあったという。
「介助なしでは歩けなかった女性が、ロボットを使って歩行距離を伸ばすうちに『一人でも歩けるのよ!』と気持ちを高ぶらせて喜んでいらっしゃる記録を見せてもらったこともあります。高齢の方は周囲に迷惑をかけたくない、誰かに頼らなければいけないのがつらいと考えていることが多いので、一人で歩けることが自信になり、気持ちが元気になって日常生活にも良い変化があると聞くことは何よりうれしいですね」と山田氏。
そもそも歩行運動は人間の機能のほぼすべてを使うといい、その訓練は全身運動になるだけでなく、脳の活性化にもつながる。山田氏自身、母親を介護した経験やさまざまな施設への聞き取りを通じ、転倒や気力の低下から歩くことに消極的になった高齢者が動けなくなっていったり、車椅子生活になったりする事例を数多く見聞きしてきた。また、自立した尊厳ある生活には、自分でトイレに行けるなど「歩くこと」が重要な位置を占めることも実感としてあったという。身体機能の維持に役立つトレーニングロボットの開発の背景には「いつまでも自分の足で歩きたい」という高齢者の思いがあり、「それをしっかり支えたいという思いでやってきた」と山田氏は力を込める。
とはいえ、これまで高齢者の歩行を支えるものとしては歩行器や手押し車、トレーニング機器としてはスポーツジムにあるようなマシンが主流。また、歩行のアシストではなく負荷を与えるトレーニング機器は今までになく、試行錯誤の連続。試作機を作っては、介護施設や病院に通って実際に使ってもらい、フィードバックを繰り返す日々が何年も続いた。運動負荷はどれくらいが良いのか。利用者の支えになるにはどれくらいの負荷が必要なのか。必要なデータは何か。どういった形が使いやすいか。AIに判断させる基準をどのように設定すればいいのか……。施設の要望なども聞きながら課題を一つ一つクリアし、機能的には満足できるものに至った。しかし、今度はデザインという壁にぶつかる。
「それなりにデザインしたつもりで施設に持っていっても、歩行器に近いデザインだと『私はまだこんなものは使わない』と言われたり、既視感のあるデザインだと何らかの福祉支援機器に見えて敬遠されてしまったり。これではダメだと思いました」と山田氏。
そのころ、ユニバーサルデザインの専門家であるくらし事業本部 デザイン本部 未来創造研究所 ナレッジ&HCD推進課の中尾洋子氏は、社内の高齢社会に向けた勉強会で山田氏と歩行トレーニングロボットを知った。ユニバーサルデザインの取り組みとして是非協力したいと思い、かつ、デザインの力で今の課題を解決できると感じたため、コネクティッドソリューションズ社 デザインセンター プロダクトデザイン部の松本宏之氏にもプロジェクトに加わってもらい、ゼロベースで骨格からデザインを検討し直すことにした。
2人はまず、白内障ゴーグルや重りのついたベストなど、高齢者の身体能力の変化を疑似体験する装具を身に付け、実際に試作機を試してみるところから始めた。目指したのは、自転車で言えばママチャリではなくロードバイク。「操る喜びみたいなものが感じられ、積極的に使いたいと思わせるデザインにしたいと思いました」と松本氏。
デザインで最も工夫したのは、ハンドルの形状だ。松本氏はこう語る。「100人いれば100通りの安定した形があって、持ち方も一人ひとり全く違います。となると、だれにでも対応できる形にしなければいけません。いろいろな部分を好きなやり方で持てるほうがいいのではないかなど、悩みながらあの形になりました」。ループ状のハンドルはどの部分を持っても押しやすく、握るだけでなく手首やひじを載せて体を預けながら歩くこともできる。握りやすい太さも試行錯誤し、腕などを載せやすいようハンドルの上部は平らにする工夫も。使う人の身長によって高さを自動で変えられるよう、機構から変更した。
また、腰が曲がった人や老眼の人でも適度に離れて見やすくするため、ディスプレイの位置をハンドルの奥に変更。後輪の付いた脚は、利用者の足が引っかからず、かつ外側にあまり広げすぎない形状にしたうえでスリム化を図った。「後輪には負荷を生み出すためのモーターなどが内蔵されているため、最適な幅でスリム化させるのに、かなり苦労しました」と山田氏は振り返る。
松本氏は通常ならUI(ユーザーインターフェイス)デザイナーに任せるディスプレイの表示も一貫した操作性実現のために重要と捉え自ら担当。目標を達成するとメダルが出てくるといった遊び心も加えつつ、情報量をしぼって、分かりやすくモチベーションにつながるような表示を目指した。「同じデザイントータリティで、ハンドル同様、その部分が一番大事なんだと直感的に分かるよう、ポイントでオレンジ色を使っています」と松本氏。中尾氏は「明るく前向きな気持ちになることを考えた時に、スポーティーかつ明るい色であるオレンジはとても適切な色だと思います」と話す。
こうして生まれた、「歩きたくなる」デザインは、2018年度グッドデザイン賞ベスト100やIAUD国際デザイン賞2018金賞を受賞。2021年日経優秀製品・サービス賞 最優秀賞にも選ばれた。トレーニング機器に見えないシンプルかつスポーティーなたたずまいは、展示会場などでは子どもたちにも人気だという。まれに障害のある子どものトレーニングとして使えないかという相談もあるそうだ。
「このロボットを必要とされる高齢の方に向き合ってデザインしたことが、他の方にも評価される。良いデザインには、そのようなことがあります。また、歩行トレーニングロボットで目指したいつまでも高齢者が生き生きと暮らせることは社会的にも大変意義のあることですから、高齢者が自分でできることを増やす取り組みは他にも広げていきたいと考えています」と中尾氏。
松本氏は「利用者の方に笑顔が増えたといった反響は、ものづくりの我々にとって本当に冥利に尽きる、うれしいことです。今回のプロジェクトでは、自分で仮説を立てて作ったものを現場に持っていって意見を聞くことの大切さを実感しました。多様な要望にも応えていくその姿勢は我々プロダクトデザイナーにとっても、今後さらに求められていくものだと思います」と語る。
デザインだけでなく、様々な社内連携を通して量産モデルの開発にも成功し、ロボットを用いた「歩行トレーニング支援サービス」が2021年4月から始まった。介護・福祉施設、病院などを対象とするサービスだ。導入施設からの要望に基づくアップデートも進めており、今後はさらに術後の回復期の体力増進など、利用シーンの拡大を視野に改善を進めていくという。
そして、未来へ向けた大きな挑戦として、山田氏は高齢者一人ひとりの側にいてその生活をサポートするロボットに進化させることを目指している。それは開発当初から考えていたことであり、今も「個人で利用したい」という要望が時々寄せられるなど、社会の切実なニーズでもあるからだ。
「少子高齢化に関しては、高齢者が生き生きと暮らすことが本質的な課題解決だと思っています。私どものやりたいことは、そこに対して貢献していくことに尽きます。飯吉さんが指摘されていたように、特に高齢者のサポートにおける円滑なコミュニケーションのための緩衝材としても、ロボットなどの技術を使った支援が適していると考えます。いつかは、決して支援するだけでなく、ちょっと小言を言って動かす家族のような存在として、ロボットが一人暮らしの高齢者の側で役立つような未来をつくっていきたいですね」(山田氏)
出典:未来コトハジメ
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