
小林幸一郎は1968年、東京の新富町で生まれた。視力を失った後の2006年、ロシアで開かれた第1回パラクライミング選手権・視覚障害者男子部門で優勝。14年から21年にはパラクライミング世界選手権のB1(全盲)クラスで4連覇を果たした。
ところが、幼い頃は運動嫌いだったと言う。 「小、中学生の頃は楽しい思い出が全然ありません。体育は苦手、勉強もやる気になれない。夢中になれるものがありませんでした」
転機は高校2年の春。
「本屋で偶然立ち読みした『山と溪谷』でフリークライミングを知りました。金髪のアメリカ人が岩を登る写真と〈このスポーツはオリンピックのような競争ではありません。誰かと比べるのでなく、自分の限界を押し上げるもの〉という記事があった。競争が嫌い、劣等感の塊だった私は“やってみたい”と思った。載っていたクライミング教室にすぐ申し込みました」
都内で講習を受け、夏休みに長野県川上村に行った。 「着いてすぐ、トゲトゲした岩山が目に入りました」
川上村はクライマーたちが小川山と呼ぶ花崗岩の岩に囲まれた聖地だ。 「初めて挑戦したのは20メートルくらいの岩。何とか登り切れた時の達成感がすごく大きかった」
自分にもできる、その自信が全身を駆け巡った。 「もうひとつ大きかったのはそこにいる大人たちとの出会いです。夜、たき火を囲んで大人たちは酒を飲んで盛り上がる。医者、教師、会社員、劇団員など、いろんな人がいた。愉快に語り合う彼らを見て、“大人ってこれでいいんだ”と思った」 自由で快活な大人がいることをその旅で知った。
大学に進学する頃、偶然見たカレンダーの写真に目を奪われた。アメリカ・ヨセミテ国立公園の〈セパレート・リアリティ〉と呼ばれるルートだった。 「天井に手のひらがやっと入る幅の割れ目があって、そこを横に移動していく」
割れ目(クラック)につかまる場所はないので、ジャミングというテクニックを駆使する。クラックに手を挟み入れ、体を支える。 「写真を見た瞬間、“人間ってこんなこともできるんだ、このルートを登りたい”と思った。2年間バイトして費用をためました。夕方4時から夜中2時まで銀座のホテルのバーで働きました」
大学3年の時、念願かなってヨセミテに向かった。 「10メートル登ると長さ約6メートルの天井の割れ目がある。夢中でつかまって移動して、最後に奇麗な青空が見えた」
鮮やかな青空が約2年かけた準備のご褒美だった。
大学を卒業後、旅行会社を経て、米国のアウトドアブランドの日本法人立ち上げに関わった。店舗の開店スタッフ、体験ツアーの企画・添乗。地球規模のアドベンチャー・ツアーを手がける会社との契約を考えるなど乗りに乗っていた。 「天職に出会えた。自分はこの仕事を一生やっていくだろうと確信しました」
その矢先、運転中に目に違和感を覚えた。メガネ屋に行くと「視力が出ないから」と眼科の受診を勧められた。そこで、「遺伝性の難病で治療の方法がありません。やがて視力が失われます」と宣告された。28歳の時。未来からすべての希望が奪われる思いだった。
そんな小林の背中を押したのは、アメリカ留学経験を持つクライマーの鈴木直也だ。友人の結婚式で偶然出会った直也は小林と共に世界を巡る大切な友となり、岩を登るルートを声で知らせるガイドを務めてくれた。
「全盲でエベレストに登ったクライマーがいると教えてくれたのも直也でした。エリック・ヴァイエンマイヤー。世界7大陸の最高峰に登っている彼に会いたくてメールを送り、コロラドまで会いに行きました」
「彼はそれまでに会った視覚障害者と異なる生き方をしていた。彼のおかげで大きな可能性を感じ、失いかけた自信を取り戻しました。『アメリカではたくさんの障害者がクライミングをやっている。日本でもキミが先頭に立てばいい』と言われて、2005年にNPO法人モンキーマジックを立ち上げました」
ユタ州モアブにある〈フィッシャー・タワーズ〉への挑戦も、直也の言葉が始まりだった。 「タワーに立とうよ。楽しいよ、オレは若い頃よく行ったんだ」
岩の塔が連なる中でもひときわ目立つ尖塔だという。
「どんな岩か聞いても直也は『すごいんだってば』としか言わない。『それじゃ分からん』と言うと、『じゃ行くしかないな』って(笑)」
その旅の記録は映画「ライフ・イズ・クライミング!」にまとめられている。 「行ったら120メートルの鉛筆の先に、座布団1枚の頂上がある感じ。すごく風が強かったので、上に立って正面から風を受けたら飛ばされる。登り切ってまずカエルのようにしゃがんで右左を向いて、風を横から受ける向きで立ち上がりました」
途中、シューズを片方落とすアクシデントもあったが、見事に登り切った。タワーの上で小林はハーネスに結んでいた視覚障害者の大切な相棒である白杖(はくじょう)を取り、空高く掲げた。

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