※本稿は、川畑智『さようならがくるまえに 認知症ケアの現場から』(光文社)の一部を再編集したものです。
甘いものやお酒、タバコなど、これは絶対にやめられないというものは人間誰しも少なからずあるだろう。
認知症になったからといって、好きだったものまで忘れるかというとそんなことはなく、むしろ他のことは忘れてもそれだけは絶対に忘れない、と強く記憶に刻まれるケースはたくさんある。
そろそろお風呂にでも入ろうとしていた頃、自宅の電話が鳴った。
「木崎です。夜分にすみません」と話す電話の主は、認知症の疑いがある木崎さんの娘さんからだった。木崎さんは、認知症の診断こそまだついていないが、認知症チェックをしたときに、少し認知症のリスクが出てきているので気をつけましょうね、とお伝えした方だった。
「母がこの間、車で自損事故を起こしてしまったんです。幸いにも母に怪我はなく、車を廃車にしただけで済んだのですが、その後大変なことになってしまって……」と話す声のトーンが、少し暗くなったのが分かった。
そして「実は、1日に50回も電話をかけてくるようになったんです」という娘さんの言葉に、私はその回数の多さに驚くとともに、ただごとではないことが起こっているんだろうなと感じた。
詳しく話を聞いてみると「事故のあと、親戚みんなで話し合って、新しい車を買わないことに決めたのですが、母が全然納得してくれないんです。それからというもの、車を買ってくれという抗議の電話を1日に何度もかけてきて、スマホの通知音が鳴るたびにビクビクするようになってしまいました。母を説得するにはどうすればいいのでしょうか」と、娘さんは木崎さんからの毎日の電話攻撃にすっかりまいっている様子だった。
どう考えても1日に50回というのは尋常ではない。
私は「ところでなぜお母さんは、そこまでして車を必要としているのでしょうか?」と先程から気になっていたことを尋ねたところ、「それが、その、パチンコなんです……」となんともバツの悪そうな答えが返ってきた。
聞けば木崎さんは、元々居酒屋のママで、お酒好き、タバコ好き、そして大のパチンコ好きで知られており、事故を起こす前は週に2~3回の頻度で、自宅から車で20分ほどのところにあるパチンコ店まで、自ら運転して通っていたそうだ。ところが2週間前、パチンコからの帰り道にハンドルを切り損ねて電柱に衝突してしまったのだ。
「どうして命が助かったのに、事故を起こす原因になったパチンコにまた行きたがるのか、理解に苦しみます」と、娘さんは少しイライラした様子だった。木崎さんにとって、車を買ってもらえないことは、もうパチンコに行けないことを意味する。お店をたたんだ今、パチンコこそが最大の生きがいなのだろう。だからクレーマーのように電話をしてくるのだ。
地域包括支援センターでは現状打つ手がないらしく、そこで私のところにお鉢が回ってきたというわけだ。
「ではもう車を購入するという選択肢は、絶対にないということで間違いないですか?」と念のため確認すると、娘さんは「はい、それは絶対にできません。いつ加害者になるか分からない状態で、また事故を起こされても困りますので」と、しっかりとした口調で答えた。
娘さんにとっては、もしかしたらパチンコそのものもやめてほしいのかもしれないが、それでは木崎さんの娘さんへの電話攻撃が、一生続くことは目に見えている。そこで私は、2つの提案をした。
1つ目は、きっとパチンコ仲間がいるはずだから、その人たちに送迎をしてもらうのはどうか? ということ。しかし、木崎さんにはパチンコ仲間はいるものの、店で顔を合わせたときに会釈する程度なので、お互い連絡先はおろか、名前さえ知らないという状態だそうだ。
「では、ご家族が送迎する日を決めて、木崎さんを連れて行くしか手はないですね」と、私は2つ目の提案をした。
やはり、パチンコ自体をやめさせることは難しいかと、娘さんの落胆している様子が、電話の向こうから伝わってきた。
そこから娘さんは、週に1度、木崎さんをパチンコ店まで送迎することを決めた。娘さんは初めて送り届けたとき、「お母さん、2時間経ったら迎えに来るからね。延長はなしだよ!」と声をかけた。
すると、「ケチだねぇ。この1カ月来られなかった分を取り返してやるんだから」と憎まれ口を叩きながら、娘さんに分かったよと言う代わりに、手をヒラヒラ振りながら、颯爽と店の中へ消えて行った。
木崎さんを送迎するようになってから2週間が経過した頃、娘さんはその後の様子を報告しに来てくれた。
「不思議なことに、送迎を始めてからぴたりと電話は鳴らなくなったんですよ」と話す声は、以前よりも明るくなっていた。昔に比べるともちろん頻度は減ったものの、大好きなパチンコが再びできるようになり、木崎さんの心は落ち着きを取り戻したのだろう。
たとえ車がなくなっても、少し工夫をすれば、これまでの生活はある程度できるようになった。パチンコに行くことで、木崎さんはもちろん、娘さんも電話の悪夢から逃れることができて、結果的に二人の気持ちに余裕が生まれたのだ。
「この間母に、『命があるからこそパチンコができるということを身にしみて感じているよ。車を買えなんてわがまま言って悪かったね。毎週連れて来てくれてありがとう』って言われたんです。昔はこんなこと言う人じゃなかったのに」と、娘さんは少し照れくさそうに、そして嬉しそうに語った。
「以前、お母さんがなぜまたパチンコをやりたがるのか理解できないって仰っていましたが、例えばお母さんの趣味が、韓流ドラマを見ることだったらどうでしょう? きっとやめさせていなかったんじゃないでしょうか」という私の言葉に、娘さんは黙り込んでしまった。パチンコというギャンブル性の高いもの、そこに自分の時間も取られるとなると、やはり誰しもいい印象は持ちにくいのだ。
「お母さんは確かに認知症の症状は少し出ていますが、きっと心はまだまだお若いのだと思います。だってパチンコという生きがいがあって、それを続けることができているのだから。しかもそれに大好きな家族が協力してくれている。だから、本当は自分で車を運転して行きたいけど、文句を言わなくなったのではないでしょうか」と、私は木崎さんの気持ちを推し量りながら伝えた。
「私、いい歳してパチンコにハマっている母を、心のどこかでずっと恥ずかしいと思っていました。だから平気で母から大事なものを取り上げようとしたし、それに対する抵抗を疎ましくすら感じていました。たとえ娘であろうと、母の楽しみに口出ししてはいけないんですね」と、娘さんはじんわり涙をにじませていた。
木崎さんの中にあるパチンコに行きたいという思いは、ずっと続いていて忘れることはない。認知症の人が忘れてしまうというのは、少し違うと私は思っている。大事だと思っていればいるほど、本人の中でそれは生き続ける。
大切なのは、そういった本人の大事にしまっている思いが、一体どこにあるのだろうかと私たちが探して寄り添うこと。それをしない限り、答えは絶対に見つからない。
しかし裏を返せば、鍵は本人がちゃんと持っているということだ。私たちが諦めずにそこへアプローチしていけば、きっと一番良い答えが浮かび上がってくるだろう。
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