1974年に当時ロサンゼルス・ドジャースの主力投手だったトミー・ジョン投手の左ひじ靭帯損傷に対して、チームドクターを務めていたフランク・ジョーブ医師が行った腱の移植手術に端を発する「トミー・ジョン(TJ)手術」。
1979年には、前年にひじの故障に見舞われていたロッテオリオンズの三井雅晴投手が渡米し、ジョーブ医師の執刀により日本人で初めてのTJ手術を受け成功している(その後のリハビリに失敗して完全復活はならなかった)。その後、1986年にこの術式が医学雑誌に載ったことから急速に普及拡大。日本でもいくつかの施設がこの手術を導入し、多くの選手が国内でTJ手術を受けられるようになった。
現在、日本でこの手術を最も多く行っているのが、横浜南共済病院スポーツ整形外科部長の山崎哲也医師。靭帯を傷めたNPBの選手の多くが山崎医師による靭帯再建術を受けている。
靭帯損傷というと「靭帯が断裂して連続性がなくなっている」と思われがちだが、これは誤解だ。靭帯損傷と診断されるケースの大半は、長期間にわたるひじの酷使によって“損傷(傷み)”が蓄積している状態で、完全に断裂して連続性がなくなっているのはむしろ稀なことなのだ。
その上でTJ手術の流れを見ていこう。
まず、患者の手首から長掌筋という筋(すじ)の腱を13~15センチほど切除して採取する。次に患部のひじを切開し、損傷している靭帯をタテに割くようにして割れ目を作る。その割れ目に手首から採取した腱を二つ折りにして挟みこむ。上腕骨(肩からひじ)と尺骨(ひじから手首)の接合部にドリルで穴をあけ、移植した筋を医療用ネジで固定する。
移植した筋は時間の経過とともに靭帯に成熟、つまり「自分化」されていくことで、損傷した靭帯の代わりに機能していく――という仕組み。断裂した靭帯を縫い合わせるのではなく、酷使されて弱っている靭帯を補強する手術なのだ。
ちなみに手首から採取する長掌筋は、人間が進化する過程で退化していった組織と考えられている。切除しても周囲の別の筋が補ってくれるので、日常生活で困ることはほぼないとのこと。
それどころか、全体の約2割の人には、長掌筋そのものがない。患者自身に長掌筋がない場合は足の筋を使ったり、最近は腱を移植するのではなくポリエチレン製のインターナルブレースという人工靭帯を使うケースもある。
「手術自体はきわめてシンプル。骨にドリルで穴をあけるとき、近くを走っている尺骨神経にダメージを与えないように十分に注意する必要があるものの、特別に高難度の手術ということはありません。靭帯の再建の仕方などはジョーブ医師の頃から見ると改良が加えられてきましたが……」(山崎医師、以下同)
近年ではノンプロや学生野球の選手でもTJ手術を受けるケースが出てきた。しかし山崎医師は、基本的に「レベルの高い選手が受ける手術」だという。
「ひじの靭帯損傷は、投球動作の一部でのみ痛みを引き起こす。たとえ損傷があったとしても、野球をやらなければ日常生活で痛みが起きることはありません。しかもTJ手術を必要とするのは、他の治療を行っていて、トップクラスのトレーナーや理学療法士によるあらゆるリハビリを含めた保存療法をしたうえでなお改善の手立てがない――という状況の選手に限られます」
投球という動作は、腕やひじだけで行うものではない。軸足を踏み出すところから始まる、全身を使って行う一連の動きによって投球動作は完成する。その中で特に重要な役割を担うのがひじで、ここに強い負荷を受けるのは事実だ。
「しかし、実際には下肢や腰、体幹など全身のパーツが協力し合って投球は成り立っています。ひじにダメージが及ぶということは、ひじ以外のどこかのパーツが手を抜いているはず。それがどこなのか、どうすれば全身のパーツが均等に力を発揮できるのかを見抜くのは、医師よりむしろトレーナーや理学療法士の目なんです」
そこまで研ぎ澄まされた眼力を持つトレーナーや理学療法士による指導やリハビリをもってしてなお痛みが取れないときにはじめてTJ手術が必要になる。つまり「最後の砦」なのだ。
靭帯損傷と球速の関係はあるのだろうか。
「MAXの球速が150キロの投手が、つねに150キロで投げ続けていればハイリスクですが、130キロ程度で投げる分には痛みは出ない。でも、プロの選手は手を抜けない。つねに全力での勝負をしようとするし、チームもそれを求めます。靭帯損傷の痛みはパフォーマンスが最大の時に出るので球速そのものは関係ありません。たとえばMAXが130キロの投手であれば、130キロで投げ続けることで当然リスクが生まれます」
ならば変化球はどうか。
「カーブやスライダーがよくないという説はあり、その可能性は考えられるものの、現状ではそれを裏付ける科学的根拠は少ない。唯一ハッキリしているリスク要因は、蓄積された損傷、つまり“投げ過ぎ”に尽きるのです」
ピッチャーが全力で投球をすると、1球ごとにひじの靭帯に微細な断裂が起きていく。この微細な断裂は休めば自然に修復されるが、連投すると修復が追い付かずに悪化していく。休養期間を設けない限り悪化の一途をたどることになるのだ。
一連の投球動作の中で最も負荷がかかるのが「コッキング(腕を振りかぶってからボールを離すまでの動作)後期から加速期」にかけて。ひじに外反ストレス(内側が伸びて外側が圧迫される)がかかり、この時ひじにかかる最大の負荷は64ニュートンメートル、そのうち靭帯にかかるストレスは34.6ニュートンメートルとされる。屍体から採取した靭帯の破断強度は32ニュートンメートル。生体の強度はそれより強いとはいえ、ひじの靭帯にとって1球1球がきわめてきわどいレベルのストレスとなっていることはよくわかる。
ところで近年、この“最後の砦”であるTJ手術を希望する高校生や中学生が増えているという。その大半が手術の適用にはならない例なのだが、こうした傾向の背景には、高校野球や少年野球の指導者の知識不足がある、と山崎医師は指摘する。
「よく“野球ひじ”という言葉が使われますが、これと靭帯損傷はイコールではありません。他にも野球をしていく中でひじに骨棘障害や疲労骨折などの障害がおきることがあり、それらを総称して“野球ひじ”と呼ぶのです」
では、中高生の野球選手に野球ひじが増えているのはなぜなのか。
「“ゴールデンエイジ”という言葉がありますが、これは最も運動神経が発達する13歳前後を指します。この“ゴールデンエイジ”の周辺、すなわち小学生高学年から中学生にかけての成長期に無理をすると、ひじに障害が起きやすいことがわかっています。この『無理をさせる』を別の表現にすると『疲労やダメージの蓄積』。投球によってひじの組織に疲労やダメージが蓄積されることにより、野球ひじができ上がっていくのです」
近年は高校野球にも球数制限が導入されてはいるが、山崎医師によると「医学的に見てもう少し厳しい制限が必要」だという。
先にも触れたとおり、ひじの靭帯損傷について見れば、MAXが150キロの投手が130キロで投げれば痛みは出ないが、MAXが130キロの投手が同じ130キロで投げれば痛みは出る。つまるところ、制限すべき球数には個人差があり、「△球まで」と一律の枠で括る性格のものではないのだ。
「一人ひとりの選手のひじの状態をきちんとモニタリングして、『こんな症状が出たら△日休ませる』とか、『この筋肉が硬くなってきたら△球までしか投げさせない』という個別の対応が必要なのです。専属のトレーナーがいるプロと違って、高校野球や少年野球でそれを行うのは監督や指導者なのですが、残念ながらその知識が現場の指導者に浸透していないのが実情です」
この状況を危惧した山崎医師は、横浜高校野球部の渡辺元智元監督や、慶應義塾高校野球部の上田誠前監督らとともに「神奈川学童野球指導者セミナー」という組織を設立し、県内の少年野球の指導者に向けて野球ひじに代表される故障を未然に防ぐための啓蒙活動に力を入れている。
「こうした取り組みが行われているのは全国的に見ても珍しく、野球人口の多い神奈川県で、野球ひじの発生率が下がれば、この取り組みの重要性を全国の指導者にも理解してもらえるはず。これは最もわかりやすい“予防医療“なのです」
医療技術が進化して、たとえがんになっても生還する人は増えた。しかし、それより大事なのは「がんにならないこと」であることは明らかだ。
高校野球や少年野球の選手のひじも同じこと。大掛かりなTJ手術の心配をする前に、ひじを痛めないこと、ひじのダメージを蓄積しないことを考えるべき。
その重要性を、手術の第一人者が手弁当で説いて回っている現状はどうなのだろう。むしろ行政や競技団体が率先して取り組むべきなのではないだろうか。
未来の大谷、未来のダルビッシュの芽を、大人が摘んではいけない。
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