第169回芥川賞を受賞した市川沙央(いちかわ・さおう)さん。
受賞作『ハンチバック』の主人公は、市川さんと同じ筋疾患「先天性ミオパチー」を患っているが、電子書籍化が進まない日本社会に対して「出版界は健常者優位主義(マチズモ)ですよ」と、強い言葉で批判する場面が小説に登場する。
市川さんは芥川賞の受賞発表後の記者会見で「なぜ重度障害者の芥川賞受賞が初なのか考えてほしい」と問題提起したほか、後日開催された贈呈式でも「出版界の皆様、勢ぞろいということで、新ためて環境整備をお願いしたい」と述べるなど、その発言にも注目が集まっている。
市川さんは、現代の日本社会のどこに健常者優位主義を感じているだろうか? Business Insider Japanが10の質問を市川さんに送ったところ、メールで回答が寄せられた。
参考記事:「怒りだけで書きました」芥川賞・市川沙央が贈呈式で語ったこと【全文掲載】
市川沙央…1979年生まれ。2012年に八洲学園大学に入学、2018年に卒業。2019年に早稲田大学人間科学部(通信教育課程)に入学、2023年に卒業。卒業論文の『障害者表象と現実社会の相互影響について』は、同大学で最も名誉ある賞とされる小野梓記念学術賞を受賞した。2023年に『ハンチバック』で文學界新人賞を受賞してデビュー。
これまで主にライトノベルの新人賞に小説を投稿してきました。
去年の初夏、絶対にこれで受賞すると思い込んだライトノベルの自信作がいつも通りに落選しました。
8、9月は大学の夏期休暇なので来期用の応募作に着手する時期ですが、あまりにも心が折れていたので、壊れて自暴自棄になった心のまま純文学を書いてみることにしました。
文學界新人賞の〆切が9月末というのはずっと覚えていたので、ちょうど良いタイミングが今きたという感じはしていました。
【質問2】『ハンチバック』では電子書籍化が進まない現状を「読書文化のマチズモ」と指摘しました。市川さんが読書において特に苦労される点は?
私の場合、紙の本の入手と管理に特に困難を感じます。図書館や書店への移動のバリアと、本の重さのバリアですね。
私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること、──5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。その特権性に気づかない「本好き」たちの無知な傲慢さを憎んでいた。 『ハンチバック』より引用
【質問3】読書にとどまらず日本では紙ベースの行政手続きなど、広範囲におけるバリアフリーの遅れも指摘されています。特に日本の課題だと感じている点は?
例えばATMとか、コンビニのコピー(各種発券)機とか、車椅子だと画面がまったく見えず、使えません。この社会に障害者はいないことになっているので……。
インフラはもちろんとして、高い公共性のある機器やシステム、イベント運営のルールなどは多様な利用者を想定し、テストしながら設計するべきではないかと思います。
【質問4】芥川賞受賞会見では「なぜ重度障害者の芥川賞受賞が初なのか考えてほしい」と発言しました。読売新聞のインタビューでは「文化環境も教育環境も遅れている」と話されていますが、なぜ日本では環境整備が遅れたと感じますか?
端的に言って、日本では「人権」がいまだ正確に理解されていないという現実があるように思います。
「人権」は思いやりで与えられるものでもなければ、義務と引き換えのものでもありませんが、日本は一向にそのあたりの認識がふわふわしたままです。
一方、どの国でも権利の獲得は当事者の運動の成果として進んでいくものです。その意味では日本の当事者は大人しすぎるのかもしれません。
そう思って私は声を上げました。
【質問5】現在、同性婚問題などにおいては性的マイノリティー当事者が実名で声をあげるようになりました。マイノリティー当事者が社会に向けて発信することの意義についてどう考えますか?
とても意義があり、また効果があると思います。
「私はここにいるし、昔からいたんだよ」という事実と経験を可視化することで、マジョリティの世界認識を拡張していければ良いと思います。
障害学や障害者表象研究においても、LGBTやクィア領域における理論と実践の蓄積は、マイノリティ分野の先行研究として欠かせない参照先でしたし、後を追いかけるかたちで障害学と障害当事者もプレゼンスを上げていきたいものです。
【質問6】「高齢者の集団自決」発言や、「LGBTは生産性がない」発言など、日本では政治家や著名人からも人権意識を欠く差別発言が繰り返されています。こうした発言が生まれる現状をどう感じていますか?
ここで私がそれぞれの発言の元テキストにあたることなく切り抜かれたフレーズだけの印象で何か答えると、SNSなどで見られる脊髄反射と同じことになってしまうのだと思うんです。
SNSの脊髄反射文化は確かに不快なものですが、言論の自由の価値は、言論によって守っていかなければならないと思います。
SNSの書き捨て的な短文ではなく、ある程度まとまった文章を書いて公表し、それに対して反論がなされ、議論が積み重ねられていく。それが自由な言論です。
私はつねづね、政治家は政策論を書いて出版し世に問うべきだと思っています。批判に耐える論もあれば耐えない論もあるでしょう。
昔、戦間期のポーランドに、差別・排外主義の右翼活動家の女性がいたんです。ナチ・ドイツによるソ連侵攻の過程で東欧各地では先ず大量銃殺というかたちでホロコーストが始まっていくわけですが、ドイツに蹂躙されたポーランドでその女性は、ワルシャワ・ゲットーの蜂起と脱出を支援してユダヤ人と共闘したというんです。
自分たちが(ポーランドからユダヤ人を追い出せと)言っていたのは、けっしてこういうことではないんだと。その違いを後世に証明するために。私はこんな話が好きなんです。
一人の人間の中の複雑な機微を書くのが小説だと思っています。誰しも人間性の一線を持っていると信じています。
だからどんなに差別的な相手とでも対話の可能性を開いておきたい。あいつは右だから左だから敵だ、と断絶してしまえばもう戦争しかないので。
【質問7】『ハンチバック』を読んで、私は「自分の人生をきちんと生きなくては」という前向きな気持ちになりました。読者からの反応で印象的だった感想などはありますか?
私は好評も酷評もどちらも美味しくいただけるタイプなのですが、さすがにちょっと「その身体の醜さは心の醜さそのもの」だとかいうお言葉には、親の仇レベルの言われようだなと思いました。たかが小説の主人公にそこまで言わなくても……笑
【質問8】私は20〜30代のキャリアを取材することが多いのですが将来に不安を感じている人も少なくありません。不安を感じる時、市川さんなりの方法があれば教えてください。
将来の不安と言ってもいろいろなレイヤーがあると思いますが、どうですかね。
たまに誰も見守っていないところで具合が悪くなりピンチを感じたときに、「何だかんだと40代までこれまでも生き延びてきたんだし、大丈夫大丈夫」と気を落ち着かせることがあります。
国も人間も「これまでも生きてこられたんだからこれからも大丈夫さ」くらいに思っておくといいような気がします。
【質問9】市川さんにとって小説とはどのような存在ですか?
好きでもないのに家の都合で決められた幼馴染みの許婚(いいなずけ)みたいな存在です。まあ大体そんな始まり方をするロマンス小説は途中で両思いだったと判明するんですが……。
【質問10】小説はフィクションですが、社会を色濃く反映します。小説が社会に与える影響についてどう考えますか?
小説が社会に与える影響は他のメディアに比べれば微々たるものかもしれませんが、その「弱さ」こそが小説の美点であり、得難い特性だと思います。即効性や効率とは離れたものとしての良さがあります。
とはいえ、たまには流行語を生むくらいインパクトのある小説も出てきたらいいですよね。
編集部より:初出時、「2018年に八洲学園大学に入学」としていましたが、2012年に入学でした。お詫びして訂正いたします。2023年9月14日18:05
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