「認知症は自分の家族にはまだ関係ない」と感じていても、ある日突然やってくることがあります。いきなり介護をすることになって戸惑わないために、事前に備えておくことが重要です。理学療法士の川畑智さんが認知症ケアの現場で経験したエピソードをまとめた『さようならがくるまえに 認知症ケアの現場から』より、一部抜粋してお届けします。
思いもよらぬことで発覚する認知症
認知症と交通事故は、切っても切れない関係がある。
自分が認知症だと気づいていない場合、自損事故を起こす割合がとても高い。その一方でさっきの角を曲がるんだったと、急ブレーキを踏んで後ろから追突されてしまうというケースもある。しかしこの場合、玉突き事故を起こした真犯人が自分だとわかっていないことすらある。
このような事故を引き起こしてしまう前に、家族の方には、車体に傷がないか定期的にチェックしてもらいたい。
早めに気づくことで、事故を起こすことなく認知症ケアに移行していけるからだ。そしてそれは本人や家族だけではなく、道行くすべての人々のためでもある。
認知症に気づくきっかけとなるのは、物忘れがひどくなってきたり、道に迷うことが多くなってきたりすることが一般的ではあるが、ときには思いもよらぬことで発覚することもある。
「あと10分早く出ておけばな……失敗したな」と本城さんは悔しそうに独り言を言った。取引先での打ち合わせが思ったよりも長引いてしまい、運悪く夕方の帰宅ラッシュに巻き込まれてしまったのだ。だが、契約がうまくまとまりそうで一安心し、今日の晩御飯はなんだろうなんてことを考えながら、熊本市内を運転していた。
本城さんは65歳のバリバリの会社経営者だ。先輩経営者と免許返納の話になることもあるのだが、休日のゴルフを何よりも楽しみにしている本城さんにとっては、身体的な限界でゴルフができなくなるまでは、免許は返納しないつもりだった。まだまだ経営に携わっていたい、そのためにはゴルフができるくらい元気な身体でいなければな、そう思いながら、前の車のテールランプをぼんやりと眺めていた。
イライラが最高潮に達した本城さんの運転
熊本市というのは渋滞が頻繁に起こる都市だ。なぜなら路面電車がそこかしこに走っており、本来片側4車線であるところが、1車線使えなくなってしまうからだ。それゆえ朝夕のラッシュ時には毎日のように渋滞が起きている。
ただ救急車や消防車といった緊急車両は、路面電車の軌道内を通行することができるので、緊急時における渋滞の影響は限りなく少ない。
今日は3連休前の金曜日。家路を急ぐ車の列で道路はひしめき合っていた。
「それにしても、前の車は遅過ぎやしないか。また信号が変わってしまうじゃないか!」と、イライラが最高潮に達した本城さんは、路面電車が来ていないことを確認してから、ハンドルを右に切り、路面電車の軌道に出て前の車を抜き去った。
もちろん、路面電車と一般の車線の間には、追い越し禁止を示す黄色いラインが引かれているので、そもそも軌道内に侵入すること自体、立派な交通違反となる。しかしここで一番の問題となったのは、本城さんが抜き去った相手だった。
ウーッと急にサイレンの音が鳴り響き、「前の車止まりなさい」というスピーカーからの声で、本城さんはハッと我に返った。なんと本城さんの目の前でノロノロと走っていた車はパトカーだったのだ。
この事態に一番驚いていたのは、他ならぬパトカーに乗っていた若い警察官だった。覆面パトカーならいざ知らず、どこからどう見てもパトカーだとわかるのに、それを堂々と抜き去るなんて。警察官の目の前で、違反をした本城さんの行動がまったく理解できなかった。また、本城さんは、ビシッとスーツを着こなしていて、受け答えもしっかりしていた。だからこそ警察官は混乱してしまい、現場に家族が呼び出される事態になってしまったのだ。
連絡を受け、すぐさま飛んできた本城さんの息子さんも、単なる交通違反ではないということに驚きを隠せなかった。
「確かに、たまに物忘れをすることはありましたが、それはよくあるレベルのことですし、これまで業務にも日常生活にもまったく支障はありませんでした。なのに、まさかこんなことになるなんて」と、事件を起こして小さくなっている本城さんを見ながらそう言った。
そこから、本城さんはすぐに専門の病院で検査を受けることになった。問診に加え、CTやPET検査などを受けた結果、本城さんは、前頭側頭型認知症と診断された。
50~60代で発症する前頭側頭型認知症
前頭側頭型認知症は難病に指定されていて、人格や記憶を司る前頭葉や側頭葉が萎縮して起こる認知症である。発症すると、社会性が欠如したり、我慢ができなくなったりして、人格や行動の変化、言語障害などの症状が出てくるのだ。また、50~60代という比較的若い元気なときに発症するので、自分が病気であるという意識を持ちにくく、また家族が気づくのも遅れる場合がある。
前頭側頭型認知症の特徴の1つとしては、自分がルールになりやすいということが挙げられる。守らなければならない世の中のルールを認識することが、次第に苦手になっていくのだ。邪魔だからと無理に追い抜いたり、これがほしいからと万引きをしてしまったりすることがあるので、以前と比べて性格や行動が変わっていないかを、注意しなければならない。
意外なことで認知症が発覚した例としては、免許センターからの連絡でわかったということもある。75歳を越えると免許の更新の際にテストを受けなければならない。そのテストはなんなくパスできたものの、教室はどこかと何回も聞いてきたことをスタッフが不審に思い、地域包括支援センターに連絡したことによって発覚したのである。
このようなことで認知症だとわかるケースはかなりレアであるが、命を守る大事なきっかけとなった。
地域包括支援センターを通じて知り合った息子さんが、その後の経過を報告しに来てくれた。
「正直、今回の出来事には面くらいましたが、結果的に病気が判明して良かったです。あのパトカーの事件がなければ、父はきっと今でも車を乗り回していたでしょう。もしかしたら、大きな事故を引き起こして誰かを傷つけていたかもしれない。父自身も大怪我をしていたかもしれない。そう思うと、警察の方には申し訳ないけれど、あの程度のことで済んで正直ホッとしています」と、息子さんは素直に自分の気持ちを語ってくれた。
免許は返納することに
本城さんの場合、この出来事がきっかけで病気が判明したため、今回の交通違反についてのお咎めはなしになった。その代わり、免許は返納することになったのだが、案の定最初はかなりいやがっていたようだ。
「俺からゴルフを奪ったら何も残らないじゃないか、と抵抗されましたね。でも父にはまだまだ経営の方で頑張ってもらいますし、僕もこれを機にゴルフを始めることにしたので、今は僕が運転して一緒にラウンドしているんですよ。いずれ会社を引き継げば、そのようなお付き合いも増えるでしょうしね。けど、父にはダメ出しされるばっかりで」と、息子さんは、素振りをしながらそう言った。
愚痴をこぼしつつも、息子さんの楽しそうな様子を見て私は安心した。
きっと本城さんは、息子さんには言わないけれど、大好きなゴルフを一緒にできるようになってうれしく思っているに違いない。本城さんは車を運転できなくなった代わりに、息子さんとのかけがえのない時間を手に入れたのだ。
「今度私もぜひ一緒に連れて行ってください」と言うと、「僕は安全運転でいきますからお任せください」と息子さんは笑いながら答えてくれた。
引用:東洋経済 ONLINE