「子ども家庭庁」の新設に伴い、「子ども基本法案」が2023年5月1日から施行される。情報格差の解消に取り組む特定非営利活動法人インフォメーションギャップバスター(IGB)は、「聴覚障害児ことば教育五策」を提言した。背景には、聴覚障害児やその家族が、手話をはじめとした多様な言語・コミュニケーション手段の選択肢が制限されていることがある。その真意を伊藤芳浩理事長に聞いた。(オルタナ副編集長=吉田広子)
■伊藤芳浩(いとう・よしひろ)
特定非営利活動法人インフォメーションギャップバスター理事長。1970年岐阜県生まれ。生まれつき耳がほとんど聞こえない。名古屋大学理学部在学中に、車椅子の仲間たちで構成されたAJU自立の家でのボランティア活動や、聞こえない学生たちで構成された全国聴覚障害学生懇談会連合での要望活動などを通して、周りに存在している弱い立場の人を支えることが豊かな社会づくりにつながることを経験を通して知る。卒業後、日立製作所勤務のかたわら、国際ボランティアや会社でのプロモーション・マーケティング業務の経験を生かし、コミュニケーションのバリアフリーを推進するNPOインフォメーションギャップバスターの代表として、活動中。聞こえる人と聞こえにくい人・聞こえない人をつなぐ電話リレーサービスの公共インフラ化に尽力。長年にわたる先進的な取り組みを評価され、第6回糸賀一雄記念未来賞を受賞。講演は大学、企業、市民団体など、100件以上の実績あり。著書は『持続可能な開発のための教育(ESD)の理論と実践』など。
■手話が禁止され、勉学に多大な苦労も
――「聴覚障害児ことば教育五策」を提言されたのは、どのような問題意識からでしょうか。
私自身は重度難聴であり、音声だけでは、勉強で必要な情報が得られませんでした。私は手話という視覚を活用した言語・コミュニケーション方法が禁止されていた時代に教育を受けており、勉強には大変苦労しました。
例えば、家庭教師をつけたり、教師用指導書を特別に入手したり、参考書を大量に購入したりして、文字ベースで得られるあらゆる情報を手に入れるように努力し、私自身も親も多大な苦労を払いました。
もし、家族に経済的・時間的余裕がなければ、もっと大変な状況になります。そのような経緯があり、音声だけ、つまり、聴覚を活用するだけでは限界があることを実体験として知っています。
私の場合は補聴器、今は人工内耳が増えていますが、それらを活用しても、聞こえる人と同等になることはできません。また、口話法という口型を読み取って相手の話している内容を理解する方法では、100%理解することは困難でした。
――手話に出合ったのは、いつですか。
私は、成人してから手話に出合いました。聞こえない学生が集まるコミュニティに参加した時に、手話を使用してスムーズに議論したり、深い話をしたりすることができる状況を目の当たりにして、衝撃を受けて、自分も手話を覚えたいと思いました。
手話を使用することで、相手の言っていることを理解でき、かつ、リアルタイムで私の考えていることをスムーズに伝えることができるようになりました。自分のアイデンティティと直結した言語を使用することが、周りとの関係性の構築、そして、心理的安全性の構築に役に立つことを実感しています。
聴覚活用だけでなく、視覚活用という選択肢があれば、情報量が増え、勉強の質が向上することは言うまでもありません。
■多様な子どもに多様な言語・コミュニケーション手段を
――そうした実体験から、言語・コミュニケーション手段の多様性の確保が重要だと感じられたのですね。
一人ひとりに適した言語・コミュニケーションの手段は多様であり、その中から「適したものを選ぶ自由」が保障される必要があると考えるようになりました。聴覚活用や口話法といった方法だけに絞り込むのは、多様な子どもたちの学ぶ場を制限することになり、避けるべきことです。
しかし、これまでの難聴児教育方針の議論は医療の立場に立った「聴覚活用」に集中しており、実際の教育の場でも、「視覚活用」の子への学習支援の教材や人材の不足が生じていました。改善を求める声は、実態を知る卒業生や教員、保護者などから多くあがっていました。
そのような経緯があり、多様な子どもに多様な言語・コミュニケーション手段を選ぶことができるような仕組みが必要であると考え、構想から4カ月の月日をかけて、プロボノ支援や手話で育てたい親の会と連携しつつ、「聴覚障害児ことば教育五策」を練り上げ、提言を公開いたしました。
――言葉を発する前の「前言語期(0~1歳)」に、なぜ手話などの「視覚的コミュニケーション」が重要なのでしょうか。
妊娠5カ月目ころから、おなかの赤ちゃんの脳神経回路や聴覚が発達して、だんだん外の音が聞こえるようになります。おなかの赤ちゃんは、母の声や母の心臓の音などを聞いて、「ママの音だ」と認識するようになります。この頃から、言語習得がはじまっています。
言語の音の区別については、たとえば、ほとんどの日本人は英語の「R」と「L」の区別ができませんが、最初からできないわけではありません。生後半年頃までは、「R」と「L」の区別ができている可能性が高いです。
しかし、人間が使えるすべての言語音を区別していると、情報過多になります。この「R」と「L」を区別して知覚できる状態は、脳神経回路がいろんな方向につながって成り立っています。日本語をたくさん聞いていると「R」と「L」は区別しなくていいとわかってきます。
すると、「R」と「L」を区別していた回路が、「刈り込まれて」区別しない回路になり、効率が上がります。子どもがものを学ぶというのはこのようなプロセスになります。新しい回路ができるのではなく、回路が減って、それが強化されて効率化します。
こうして、あらゆるものに反応していた脳が、自分にとって意味のある「ママ」とか「まんま」とかに効率よく反応できるようになって、それを言えるようになるのが1歳前後です。手話も言語ですので、情報としてインプットすれば、手話での「音」(意味のある形)の区別ができるようになり、初語が出て、親子でコミュニケーションができるようになります。
聴覚活用(補聴器や人工内耳)が可能になるのは1歳すぎてからなので、それまでの大切な1~2年を「聞こえない」という理由だけで「待つ」選択をするのは非常にもったいないです。親御さんもそのような選択はしたくないはずです。
なお、適切なコミュニケーション方法(視線の動きを観察する・注意をこっちに向ける方法など)は、どの言語であっても、聴覚障害児にとって重要です。
■情報や療育の種類に地域差も
――「聴覚障害児ことば教育五策」提言の背景には、「聴覚障害児の親の負担が重い」「聴覚障害児の成長が十分ではない」といった問題があると指摘しています。「聴覚障害児の親の負担が重い」ということですが、どういう状況にあるのでしょうか。
子どもが聴覚障害を持っていることが判明した場合、障害の告知のショックを引きずりつつ、乳児の世話をしながら様々な施設を訪問して情報収集することは、心身ともに負担がかなり⼤きいです。
特に、第⼀次機関として対応する病院において、医療的介⼊(補聴器装⽤・⼈⼯内⽿⼿術・聴覚活⽤)についての情報を得ることは、⽐較的容易ですが、⾳声⽇本語以外のコミュニケーション⽅法、例えば⼿話を使用して育てることを選択肢とした場合、親⾃⾝が⾃ら情報を得るための⾏動を起こす必要があります。
親にとてもそんな余裕がない場合には、専門家に任せるという判断になり、実質的に聴覚活用の選択肢しかなくなってしまいます。
地域によっては、第⼀次機関としての病院が聾学校の乳幼児相談や難聴児児童発達⽀援センターと連携しているところもありますが、そうでない地域もあり、地域によって得られる情報、選べる療育の種類に差があります。
例えば、ろう学校の中の乳児相談室や保健所などの⼦育て⽀援事業が無かったり、手話を推奨するかしないかといった方針がろう学校によってまちまちであったり、その⽅針に家族が賛同できなかったりで、「引っ越しせざるを得なかった」というケースがあります。また、早期教育、療育教育のための⽚親が「仕事をやめざるを得なかった」というケースは極めて多いです。
療育は、家族にとって負担が極めて⼤きく、聴覚障害児が⽣まれたのと同時に「親が育てる環境のために環境を整備せざる」を得ない状況があります。
そのため、厚生労働省の感覚器障害戦略研究の報告書(2012、テクノエイド協会発行)(※)によると、聴覚障害児のいる家庭の平均所得は、⼀般家庭の74%しかなく、療育に関する親の負担の⼤きさが所得を下げる要因のひとつと考えられます。
親が⼦どもの「ことば」獲得のための情報収集や適切なオプションを選ぶための負担が⼤きいのが現状であり、その負担は、間接的に聴覚障害のないきょうだいの養育に影響することもあります。
※感覚器障害戦略研究 聴覚障害児の療育等により⾔語能⼒等の発達を確保する⼿法の研究〜ALADJINのすすめ〜公益財団法⼈テクノエイド協会発⾏(2012年発⾏)
――次の「聴覚障害児の成長が十分ではない」とはどういう状況でしょうか。
親が言語習得に力を入れたとしても、実際にコミュニケーションがどのぐらいできるのかというアセスメントは専門家の助けが必要です。しかし現状では実施されていないことが多く、コミュニケーション上の問題が発覚するまで、言語獲得が遅れていることに気づかないことが多くあります。
また、義務教育において、聴覚障害児のコミュニケーションを⽀援するための仕組み(情報保障)が⼗分になされていないため、「学びの上での情報量の格差」の要因になっています。その結果、学業成績に悪い影響を与え、成長を妨げる結果につながっています。
■「親まかせ」から脱し、包括的な支援を
――こうした課題に対応するのが、下記の「聴覚障害児ことば教育五策」ということですが、各施策がどのように政策に反映されることを希望しますか。
私たちは、課題に対して次の五策を提案しています。
1)療育に必要な情報を提供する体制の確立
療育⽅針を決める時に、親⾃⾝が専⾨家のように知識を学んで判断するのは難しいです。
ですから、国際的な専⾨家会議でコンセンサスが得られているスタンダードFCEI(家族中⼼の聴覚障害児早期介⼊) に基づいて介⼊を⾏う「FCEIコーディネーター」が、乳児期・幼児期・学童期それぞれに対して、必要な判断ができるように、偏りのない情報提供を⾏う体制の創設を希望します。
「FCEIコーディネーター」は、親の悩みや心配事を聞いた上で、家族のニーズに合わせて、さまざまな専門家(ST(言語聴覚士)、手話言語獲得支援員、心理療法士、OT(作業療法士)を巻き込みながら、療育、言語発達に最適な情報を提供します。
2)療育環境の地域格差解消・親の経済的支援
療育で選べるオプションの地域差を解消するために、療育実施主体への療育助成を拡充するとともに、聴覚障害児の親の負担を軽減し、適切なオプションを選択できるようにするための精神・経済的⽀援を希望します。
これらの⽀援を行うことで、金銭面の格差、リテラシー格差、地域格差など、様々な格差によって生まれる療育環境や選択肢の違いを小さくするという効果があります。これまで親子への心理面に特化したサポートはあまり実施されていないため、心理的な支援によって救われる親子がいるはずです。
また、早期教育期間中に片親が仕事を辞めなければいけないというような状況を防ぐことができます。
3)聴覚障害児のアセスメント・介入体制の確立
「FCEIコーディネーター」が親の障害受容をフォローしながら、親の受け⼊れられるタイミングと⼦の必要なタイミングを⾒計らって、適切な時期に適切な情報と⽀援を適切な量で提供するような体制を希望します。
また、家庭の状況に応じて、⼿話⾔語獲得⽀援を⾏う⼿話早期⽀援員の派遣を希望します。
親子の健全な関係のためには親が子の障害を受容し、また子の言語アセスメントが早期に行われなければいけません。
聴覚活用に集中するとしても、人工内耳の手術を受けるまで(基本的に1歳以降)の待っている期間中にできることもあります。手話早期支援員と話をする機会があれば、親も障害のある児の受け止め方、適切なコミュニケーション方法(視線の動きを観察する・注意をこっちに向ける方法など)を学ぶことができます。
乳児期のこの期間が特におざなりにされているという現状(親まかせ)を改善することができます。
4)聴覚障害児のセルフアドボカシー教育の確立
セルフアドボカシー能⼒を⾝につけることで、周りの⼈に⾃分⾃⾝の障害について、説明することが容易になります。聴覚障害児のセルフアドボカシーに必要な項⽬として、「聴覚障害全般に関する知識」「プレゼンテーションスキル(手話・書記日本語)」「ICTリテラシー」があり、アメリカ発の『Self-Advocacy: The Basics』を参考にこれを育成する教育プログラムの開発・実践を希望します。
5)聴覚障害児の情報保障体制の確立
聴覚障害児のコミュニケーションを⽀援(情報保障)するために、多⾓的な⽀援サービスをコーディネートする体制(情報保障コーディネーターおよび情報保障助成)の創設を希望します。
情報保障コーディネーターは、聴覚障害児の聴⼒、コミュニケーション⼿段などに応じて、⼿話通訳・⽂字通訳・⾳声認識などの情報保障体制を構築します。
ここの4)と5)は聴覚障害児の生涯にわたる生活の質(QOL)に関わることです。
聴覚障害者は間接的に情報障害とも呼ばれます。援助なしに一人で、補聴や読唇で努力しても、今与えられている情報がどのくらいあり、自分が得られている情報がその何割なのかを把握できません。そのため、個人にかかる心理的負担が重く、孤立しがちです。
かなり話せる・聞こえる子でも、援助のない状態で、一人で「頑張って」やっと皆んなと同じスタートラインに立てるという話はよく聞いています。これは単なる経験談ではなく、個人の能力を聴者(聞こえる人)を基準にすると、聴覚障害者に相当な努力を強要することになり、本人に長期的な、心理的負担を課してしまうということを示しています。
情報保障制度が整うことは、聴覚障害児の「努力」を少しでも軽くし、社会が包括的に支援していくということで、周りにとっても本人にとっても良い結果を生みます。
――担当者の反応はいかがでしたか。
「聴覚障害児の療育上の課題が網羅されていて、かつ、対策も提言されていて、非常に参考になりました。本提言を参考にしつつ、政策を進めてまいります」というコメントをいただきました。
特定非営利活動法人インフォメーションギャップバスターは、今後も本提言が実現につながるように継続的に働きかけを続けていきます。
引用:alterna
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