「認知症は自分の家族にはまだ関係ない」と感じていても、ある日突然やってくることがあります。いきなり介護をすることになって戸惑わないために、事前に備えておくことが重要です。理学療法士の川畑智さんが認知症ケアの現場で経験したエピソードをまとめた『さようならがくるまえに 認知症ケアの現場から』より、一部抜粋してお届けします。
広く認知症のことを知ってもらうために、地方で講演を行うこともまた私の大切な仕事の一つである。
講演では、認知症はこういう症状が出てくるので、先回りして様子を見ていきましょうね、と認知症の症例や対策などについて一つずつ具体的に説明している。
医者ではない私がなぜ講演をしているのか、不思議に思われるかもしれない。たいていの医者は、医学的知見からアプローチしていくため、一般的な認知症の講演というのは、教科書通りの無機的な説明をして、認知症の大変さを強調するものがとても多い。私はそのように皆さんを過度に怖がらせたくはないので、認知症を正しく認知してもらうための講演を地道に行っているというわけだ。
そして近年、認知症について語るのは、認知症のことを研究しているプロよりも、認知症を患っている本人が直接話すことが一番良いのではないか、という風潮が広がってきた。
そうしてできたのが、認知症の方の本人ミーティングという考え方だ。「私たちを放置しないで。私たちを抜きにして、国の認知症対策を決めないで」という思いのもと、国の会議に認知症の方々が入っていくようになったのである。この本人ミーティングは、こんなことが大変だったとか、今こんな対策をしているよといったように、認知症の方同士が直接情報交換をする場にもなっている。
東京町田市にDAYS BLG!という団体がある。BLGは「Barriers Life Gathering」の略で、認知症の方々がボランティア活動などへ参加し、働くことを通して仲間と楽しい時間を過ごしたり、社会とのつながりをつくったりしていく、新しい形のデイサービスである。
私は本人ミーティングのような講演を目指すべく、DAYS BLG!代表の前田隆行さんに、若年性認知症の杉山さんという方にも講演会で話してもらえないだろうかとお願いすることにした。
「もちろん本人がOKしてくれれば全然構わないんだけど、やっぱり日によって浮き沈みがあるからなぁ。調子の波までは、さすがに私にも分からないんですよ」と、前田さんは淡々と話していた。
「本人の調子が良いときは本当に認知症の人なのかと疑われるほどスムーズに順序良く話してもらえるが、調子が悪いときは、話が変わったり、振出しに戻ったり。杉山さん頼むよ。任せたよ」なんて、笑いながら話している会話の内容は、認知症の人だからと区別も差別もしない素敵な関係の表れに感じた。
結局、一番近くでサポートしている前田さんが補足しながら当日の講演をリードしてもらう形でお二人に熊本まで来てもらえることになった。
そうして迎えた講演会当日、ありがたいことに杉山さんの体調はとても良かった。杉山さんは、少し緊張した足取りで舞台の中央に立った。
「『認知症の人は徘徊するものだ』とよく言われます。だけど、私たちは徘徊しているつもりはまったくありません。ただわからなくなっているだけなんです。もしかしたら私も10分後には、どうしてここに立っているのかわからなくなっているかもしれません」という杉山さんの冒頭の言葉に、聴衆が一気に引き込まれていくのがわかった。
認知症になると、巨大なミラーハウスに迷い込んだ感覚に陥り、外出中に急に道がわからなくなることがある。それがたとえ慣れ親しんだ場所であったとしても、自分がどこにいるのかわからなくなってしまうのだ。
「今いる場所がわからなくなったとき、皆さんはどうしますか? おそらく、普通の健康な人であれば、歩いている人に聞くと答えるのではないでしょうか」と客席に問いかけると、確かにそうだなと多くの人が頷いていた。
「ここでちょっと想像してください」と、一呼吸置いて話し始めた杉山さんの声に、一層の力が入ったのがわかった。
「私のような若年性認知症の人間が、道端で見ず知らずの人に、『すみません。ここは一体どこですか?』と声をかけたとき、どんな反応が返ってくると思いますか。『急に変な人に声をかけられた』と思い、皆さんが足早に去って行く姿は想像に難くありません。皆さんが思っているほど、私たちは気軽に道を聞くことはできないのです。そもそも、聞ける世の中になっていないのです」と訴える杉山さんの言葉には、想像もしていなかった世界が広がっていた。そんな聴衆の気持ちを表すかのように、客席は重い静寂に包まれてしまった。
認知症の方は、恥ずかしいという気持ちが強く残っていて、道行く人に尋ねることができないケースが多い。また、認知症を患っている方が身近にいない人にとっては、認知症の方から急にここはどこ? と聞かれたら、不気味だと思うこともあるだろう。
杉山さんは、この静まりかえった状況に怯むことなく話し続けた。
「私は歩いている最中に道が分からなくなったとき、真っ先にコンビニに駆け込みます。店員さんに、『ここはどこですか? こっちに行きたいんだけど、どうすればいいですか?』と尋ねると、必ず教えてくれるのです。そう、私はただコンビニを探して歩いているだけなんです。それなのに、ボケて徘徊していると思われるのはちょっと悲しいですよね」と残念そうに語った。
これまで私は、認知症の方はてっきりゴールだけを見ている、つまり家を探して彷徨っているとばかり思っていた。しかし、目的地に向かうためのポイントを探している場合もあるということを知った。
徘徊とは「あてもなく歩きまわること」を意味する言葉であるが、杉山さんの話によると、認知症の方の徘徊の中には、ちゃんと目的を持って考えながら歩いていて、迷ったからといって誰にでも簡単に声はかけないケースもあるという。この視点は、私の頭からスッポリと抜け落ちていたものだった。
「あと道に迷ったとき、ガソリンスタンドがあれば迷わず飛び込みます。ガソリンスタンドの店員さんも、しっかりと対応してくれますよ。ガソリンを入れない私にまで親切にしてくれるなんて最高ですよね」と、杉山さんの少しおどけた言い方に、それまで張り詰めていた会場の空気が一気に緩んだ。
「本当は交番がベストです。ただ交番は、お巡りさんがいないときが多いですよね。だから私は道に迷ったら、コンビニ、ガソリンスタンド、そして交番の順にそれらを探し求めて歩きます。なぜなら、私は普通の人であり続けたいから」という杉山さんの締めくくりの言葉に、客席からは大きな拍手が湧き起こった。
やはり経験に勝るものはなく、今回の講演を杉山さんにお願いして本当に良かった。いくら私が認知症について学んだとしても、認知症の方の気持ちすべてを理解することは不可能なのだ。
人間とは知らないものに対して恐怖心を抱きやすい生き物だ。
私は、杉山さんが講演会で話してくれた内容を、その後さまざまな場で伝えるようになった。そうやって、認知症の方の思いと我々が見ている世界のギャップを埋めることが、認知症に対する誤解を減らしていく近道となるだろう。
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